礼拝説教 2011年9月4日
死者の中からの復活
今日はサドカイ派の人々が登場します。 サドカイ派の人々は、 貴族階級の人が多く、 ファリサイ派の人々とは違い、 この世のことに強い関心を示し、 復活は否定していました。 また律法の遵守においてもファリサイ派ほど熱心ではありませんでした。 ですから、 主イエスの宗教改革運動にあまり関心を持ちませんでした。 それでも、 祭司長、 律法学者、 長老たちと、 政治・経済の分野で、 密接な関わりを持っており、 主イエスの神の国運動には否定的に関わらざるを得なかったようです。
サドカイ派の人々は主イエスのところにやって来て言いました。 「先生、 モーセはわたしたちのために書いています。 『ある人の兄が死に、 妻を後に残して子がない場合、 その弟は兄嫁と結婚して、 兄の跡継ぎをもうけねばならない』 と。」 これはレヴィラート婚の規定のことです。 ユダヤの律法では、 長男が子どもをもうけないで死亡したとき、 その兄弟ないし親戚が、 残された妻と結婚し、 子をもうけ、 家系を絶やさないことにしていました。 戦争や疫病で死亡率の高い時代でした。 レヴィラート婚の掟は、 社会の秩序を維持する、 重要な基盤になっていました。
「ところで、七人の兄弟がいました。 長男が妻を迎えましたが、 跡継ぎを残さないで死にました。 次男がその女を妻にしましたが、 跡継ぎを残さないで死に、 三男も同様でした。 こうして、 七人とも跡継ぎを残しませんでした。 最後にその女も死にました。 復活のとき、 彼らが復活すると、 その女は誰の妻になるのでしょうか。 七人ともその女を妻にしたのです。」
復活があるとすると、 七人の兄弟が復活したとき、 そこで一人の女性を巡り七人の男性の間で熾烈な奪い合いが起こることになります。 そうなればせっかくの神の国も平和ではなくなります。 サドカイ派の人々は、 復活は、 人間の抱く愚かな幻想で、 非現実的だと考えていました。 もし、 主イエスが、 ここで言葉に窮すれば、 民衆の面前で恥をかかせるつもりでした。 反対に、 レヴィラート婚の制度を否定すれば、 モーセと律法の権威を否定したという理由でユダヤ当局に訴えようと考えていました。
主イエスは、 サドカイ派の人々の悪巧みを見抜いておいでになり、 注意深く、 しかし毅然とお答えになりました。 「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、 そんな思い違いをしているのではないか。 死者の中から復活するときには、 娶ることも嫁ぐこともなく、 天使のようになるのだ。」 主イエスは、 モーセの律法であったレヴィラート婚の制度を否定することはなさいませんでした。 同時に、 復活があることも肯定されました。
主イエスが、 レヴィラート婚の制度に賛成していたか、 反対していたかは、 明確ではありません。 恐らくは家制度や一族の繁栄にこだわる当時のユダヤ教のあり方に、 必ずしも賛成しておいでにはならなかったのではないかと思います。 しかし、 だからといって、 これを即座に否定されることはなさいませんでした。 当時の社会情勢の中においては致し方ないこととお考えだったのかもしれません。
復活に関しては、 復活の時の様子は、 天使のようであり、 男と女の垣根は取り除かれていると仰せになりました。 考えてみると、 わたしたちは、 幼いとき、 性別を意識しませんでした。 身体の変化と共に意識するようになりました。 老いの坂を下るときわたしたちは性別を若いときほどには感じなくなります。 もしかすると天使のようになる準備がなされるのかもしれません。
「死者が復活することについては、 モーセの書の 『柴』 の箇所で、 神がモーセにどう言われたか、 読んだことがないのか。 『わたしはアブラハムの神、 イサクの神、 ヤコブの神である』 とあるではないか。 神は死んだ者の神ではなく、 生きている者の神なのだ。 あなたたちは大変な思い違いをしている。」 主イエスはここで、 わたしたちが、 アブラハムの神、 その子イサクの神、 またその子ヤコブの神と呼びかけることの重要性を指摘されました。 神はすでに召された人たち、 この世に居なくなった人々の神でもあるのです。 ですから死者は神にあって生きているのです。 わたしたちは生きているとき神と共にあります。 死んだ後も神と共にいるのです。
詩編の記者は歌いました。 「どこに行けば、 あなたの霊から離れることができよう。 どこに逃れれば、 御顔を避けることができよう。 天に登ろうとも、 あなたはそこにいまし、 陰府に身を横たえようとも、 見よ、 あなたはそこにいます。」 (詩編139編7~8節) 神のみ前において、 わたしたちは、 いつでも、 どこでも、 神に向き合って生きています。 だからこそ、 神に赦され、 人を赦して、 いのちの豊かさをいつも享受できる者でありたいと思います。
(9月4日 主日礼拝)