礼拝説教 2010年7月17日
新しいぶどう酒は、 新しい革袋に
わたしは若い頃から信仰における自由を大切にし、 奪い取られてはならないと教えられました。 わたしたちは油断しているとすぐに自由を奪われ、 奴隷にされてしまいます。 わたしたちは正しい信仰に導かれることで、 このような過ちから救われねばなりません。 主イエスがこの世に来てくださったのは、 わたしたちが正しい信仰によって自由にされるためでした。
ユダヤ教に近い 「エホバの証人」 は、 柔道、 剣道といった体育の授業を受けさせません。 暴力だと言います。 輸血を禁じ、 命を汚す行為だと言います。 果たしてそう言えるでしょうか。 モルモン教の人々はコーヒーや緑茶を禁じます。 カフェインが入っているからでしょう。 しかし、 それが神を愛し隣人を愛することにどれほどの妨げになるでしょうか。 「この自由を得させるために、 キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。 だから、 しっかりしなさい。 奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。」 (ガラ51) 教会に来て教えられるのは常識的と思えることばかりです。 それを無駄と思わないでください。 わたしたちは自由であり続けるために、 キリストの救いに与り、 またキリストの言葉に耳を傾けるのです。
今日は断食の話です。 ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人々は、 断食していました。 人々は律法の規定に従い、 年一回の贖罪日の断食 (レビ1629参照) を守っていました。 ファリサイ派はこれに加えて週に二度、 月曜と木曜に断食を行っていました (『ディダケー』 81を参照)。 断食は、 神の前における謙虚な行為として重んじられ、 祈願、 嘆き、 悔い改めなどと結び付いていました。 罪を贖う行為とすら考えられました (『ソロモンの詩編』 37~8参照)。 ところがこのような当時のユダヤ社会の常識を主イエスは批判し、 もっと正しい神の愛し方を説いたのです。
人々は主イエスのところに来て非難しました。 「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちは断食しているのに何故、 あなたの弟子たちは断食しないのですか。」 主イエスはお答えになりました。 「花婿が一緒にいるのに、 婚礼の客は断食できるだろうか。 花婿が一緒にいるかぎり、 断食はできない。」 当時、 主イエスと信仰者はよく花婿と花嫁の関係にたとえられました。 信仰者にとって、 主イエスが共にいてくださることは、 何よりも望ましい状態でした。 神が共にいてくださる。 なんと素晴らしいことでしょう。 断食は不要だったのです。
しかし、 主イエスが天にお帰りになった後、 教会は断食の習慣を少し復活させました。 主イエスが弟子たちと共におられなくなったからです。 しかし、 この断食は連続ではなく非連続です。 教会の断食は新しい意味を持ちました。 十字架の贖いと復活の恵みを経験した教会は、 救いを成し遂げてくださった主イエスへの感謝と、 復活への喜びを表すため、 また、 再び主イエスがおいで下さる時までの待望の祈りとして、 断食を行うようになりました。 更に、 わたしたちプロテスタント教会は、 この習慣を宗教改革以来中止しました。 毎月行われる聖餐式を断食の代わりとしたのです。 聖餐はまさに喜びの祭典です。 いま主は共にいてくださり、 将来も共にいてくださるという約束を確認させていただく時です。
新しい布切れは、 「織りたての布」 のことです。 織りたての布はまだ縮んでいません。 この織りたての布を、 古い服に継ぎ当て洗濯しますと、 この布切れだけが縮み、 古い服を引き裂きます。 また、 新しいぶどう酒を古い革袋にいれますと、 発酵の圧力によって、 古い革袋は破られてしまいます。 やはり新しい布切れは新しい服に継ぎ当て、 新しいぶどう酒は、 新しい革袋に入れるのがよいのです。 いま主にあるわたしたちは、 神を愛し隣人を愛する自由に生きるものとされています。
キリストの苦難と死を嘆き悲しむことは、 意味のないことではありません。 しかし、 そこから立ち上がって、 かつて主イエスがなさったように、 神を愛し、 隣人を愛することを始めて行くことこそ大切です。 助けを求めている人のために祈り、 手を差し伸べ、 共に救いに与りましょう。 それが主イエスの仰せになる 「新しいぶどう酒は、 新しい革袋に」 ということです。
(7月4日 主日礼拝説教)