礼拝説教 2010年6月6日

早朝の祈り

 マルコによる福音書   1章29節~39節   

   牧師 福 井 博 文

 

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  主イエスは、 汚れた霊の男の癒しをユダヤ人の会堂で行い、 神の国の到来を目に見える形でお示しになりました。 しかし、 主イエスは、 人目につかないところでも、 身近な者のために祈り、 癒しを行われました。 シモンの姑しゅうとめが熱を出して寝ていました。 人々は集まって神に祈っていました。 「熱を出して寝ていた」 という表現は、 患者の命の危険な状態を言い表します。 そこで主イエスは 「すぐに」 シモンの家に行きました。

 マルコは 「すぐに」 という言葉を頻繁に使います。 これは、 単に文学的効果を狙ったものでなく信仰的表現です。 主イエスは必要のあるところにすぐ駆けつけられるのです。 「一行は」 「彼は」 となっている写本もあります。 「彼は」 は主イエスのことです。 わたしたちの祈りに対して、 神の救いは素早く行われます。 この世で起こる出来事や悩みで解決できないものは一つもありません。 必ず解決の道があります。 神の救いを待ちましょう。

 主イエスは、 姑のそばに行き、 優しく静かに手を取り抱き起こされました。 すると不思議なことに、 熱は去り姑は元気を回復しました。 この世の事象はすべて、 神の創造の秩序に服従しています。 姑が癒やされたのは神のお力が働いたからです。 主イエスの姑を見つめるまなざしは、 人間のそれでなく神のまなざしでした。

 姑は、 起き上がって主イエスと弟子たちをもてなし始めました。 「もてなす」 と訳される言葉は、 「給仕する」 「仕える」 という意味です。 姑は食事を提供しただけでなく、 それ以外の様々な必要に応じました。 主イエスはこのことを喜ばれました。 わたしたちは自分の持つ弱さ、 障碍、 病のゆえに思うに任せないことがしばしばです。 それでもわたしたちは、 できるだけのことを通して神と人に仕えます。 神はそのような思いをよく理解してくださり、 満足の思いで見守ってくださっています。

 主イエスは集まってきた人々を 「戸口」 で迎え癒されました。 座り込んでいることができなかったのです。 このように神さまは休むことなく忙しく働いていてくださっています。 日野原重明先生はもう98歳になりますが、 今なお忙しく立ち働いておいでになります。 それも無理をしないで楽しみながら、 人の世話をしておいでになります。 神もそのご慈愛のゆえにわたしたちのために忙しく働くことを喜びとしてくださっているのです。

 主イエスは、 朝早く人里離れたところへ出て行き祈っておられました。 「人里離れたところ」 「寂しいところ」 という意味です。 神との関わりを緊密にできるところです。 山にこもったり、 修道院に入れば良いということではありません。 しかし、 神との親密な関係には、 特別の場所と時間が必要です。 都会の喧噪の真ん中にも教会の礼拝堂があります。 主日ごとに、 ここで心を鎮めて、 神との関係を回復するのです。 主日に限る必要はありません。 平日でも、 毎日礼拝堂は開いています。 そこで静かに祈っていいのです。

 主イエスは祈りの人でした。 祈ることから一日の働きを始められました。 それはこの世の誘惑に惑わされないため、 また、 神から力を戴くためでした。 主イエスの祈りの中身は記されません。 しかし、 推して知るべしです。 主イエスは、 聖霊に満たされ、 神の愛に包まれて祈られたに違いありません。 そこで、 父なる神の語られる、 かすかなみ声を静かに聴き続けられたのです。 ですから、 主イエスが、 祈りを終えて立ち上がられるとき、 そのみ顔は、 輝いておいでになりました。 人の祈りは必ずその人の行いや行動に表れてきます。 主イエスのご生涯がまさに主イエスの祈りの内容を、 そのまま表したものであると言っていいでしょう。

 主イエスはご自分を捜す弟子たちに 「近くのほかの町や村へ行こう」 と言われました。 小さな町や村にも人は住んでいて神の言葉を待っていました。 人々は、 政治の貧困、 宗教の硬直化、 身分制度、 奴隷制度、 貧困、 病等に苦しんでいました。 希望のない生活に、 生きる気力を失っていました。 このような人々がいる限り主イエスは立ち止まることはありませんでした。 わたしたちも、 聖霊に導かれ、 自分にとっての 「近隣」 や、 自分にとっての 「町や村」 に出かけて行きましょう。

(6月6日 主日礼拝説教)