礼拝説教 2010年12月5日
自由と解放の約束
待降節第二主日を迎えました。 イザヤの預言 (イザヤ61章1~3節と58章6~8節参照) に耳を傾けましょう。 神に選ばれ、 聖霊に満たされた、 救い主が来てくださる。 貧しく、 力無く、 抑圧された人々を救い出し、 身柄を拘束され、 牢につながれた人々を解放してくださる。 人々は人間として扱われるようになり、 こぞって神を崇めるようになる。 人々は、 救い主のゆえに正義を愛し、 これを行うようになる。 このイザヤの預言は主イエスの誕生によって、 現実のものとなりました。
いま、 わたしたちの社会は、 戦後に制定された日本国憲法によって、 政治的環境については、 基本的人権が認められ、 最低限の生活を保障され、 思想や表現の自由を得ています。 宗教的環境については、 信教の自由が認められ、 自由に信仰を選べるようになりました。 しかし、 実際には、 まだ多くの国民の意識は戦前のままであり、 それほど大きく変わっていません。 伝道の最前線にいますと、 信仰に関わる個人の意志はあまり尊重されないことを痛感させられます。
わたしたちの国では、 一旦外国と戦争を始めますと、 外国の人々が信仰する宗教は、 敵性宗教となり、 信仰者たちは要注意人物にされます。 わたしの父親は英語の教師をしており、 熱心なキリスト教徒でしたから、 戦時中いつも特別高等警察官の尾行がついていました。 そこに信仰の自由はありませんでした。 このような理屈で行きますと、 永久にわたしたち日本人は、 他の国の民族と信頼関係を築くことはできません。
わたしたちの国には、 ほかの近代国家にはない不思議な国民の統合のシンボルがあります。 象徴天皇です。 このお方を崇敬し、 このお方の許に参集すれば、 国の内外に混乱が生じても、 うまく収拾できると考えてきました。 ですから、 人間として信用できるかどうかの基準は、 天皇を崇め、 天皇に従う気持ちがあるかどうか、 というところにあります。 何年か前の朝日新聞のアンケート調査によりますと、 今でも国民の70パーセント以上が、 象徴天皇はなくてはならない、 あるいは、 あった方がよいと答えています。 天皇よりもキリストを信じるわたしたちは、 いまも問題児ということになります。
現代は、 多くの若者が大学で社会とは何か、 人間とは何かということを学ぶ時代になりました。 教育のない人々を啓蒙、 教化する役割、 政治的な調整機能を果たす役割が、 天皇に期待される時代はすでに終わっています。 明治維新以前、 またさらに言えば先の戦争以前、 わたしたちは、 すぐれた政治理念、 宗教、 教育、 福祉から遠ざけられていました。 最初にそのことに気づき、 これではいけないと、 注意を喚起し、 行動を起こしてくれたのが、 宣教師たちでした。 宣教師たちは、 教会を造ると同時に学校を造り、 幼稚園を造り、 病院を造り、 福祉施設を造り、 廃娼運動や青年啓蒙運動を行いました。
わたしたちの教会には幼児施設があります。 いまは園児35人と少なくはなりましたが、 以前は60~70人いました。 この幼児施設の設置目的は、 子どもたちが、 基本的な保育だけでなく、 信仰と知識と技術の面で充分な教育を受け、 個人としても社会人としても、 神の国を実現するに相応しい人材を育てることでした。 わたしたちは、 この平和に見える社会の中で、 表面の成功とは裏腹に、 まだ改善されない、 精神の盲目、 内なる天皇制から、 聖霊の助けによって解放されたいと思います。
主イエスは憐れみと慈しみをもってこの世に来てくださいました。 その目的と使命を正しく理解し、 主イエスのお働きに応える者となりましょう。 わたしたちはためらってばかりはいられません。 萎縮あるいは自粛は、 わたしたちの霊と精神の活動に大きな損傷を与え、 台無しにします。 わたしたちは人を恐れることで、 二度と奴隷のくびきにつながれてはなりません。
「あなたがたの上に聖霊が降ると、 あなたがたは力を受ける。 そして、 エルサレムばかりでなく、 ユダヤとサマリアの全土で、 また、 地の果てに至るまで、 わたしの証人となる」 (使徒18) と主イエスは仰せになりました。 この言葉通り、 弟子たちは人間的な恐れから解放され、 大胆に語り始めました。 キリストの復活の霊が弟子たちと共におられたのです。
伝道活動と、 教育活動を、 車の両輪のように継続しましょう。 教会は、 どのような環境のもとでも、 善意と、 誠意をもって宣教の働きを行います。 これを中断することはありません。 わたしたちの精神が解放されると同時に、 精神の自由を持たない人々の心を耕し種を蒔きましょう。 わたしたちの働きには実りが少ないように見えますが、 かならず報われる時が来ます。 それが主イエスにおいてなされた神の約束です。
(12月5日 待降節第二主日礼拝説教)