礼拝説教 2010年5月2日
「荒れ野の誘惑」
主イエスは、聖霊によって荒れ野に送り出されました。「送り出す」は、追い出すという意味です。これまで住んでいた安全な家から、外敵のいる外に追い出されたのです。聖霊はどうして主イエスを試練にあわされるのでしょう。ひとりの人間として、神に服従されるかどうか確かめるためです。救い主は、執り成す者です。神に忠実であり、神の義を満たさねばなりませんでした。わたしたちは、主イエスと同じように、完全であることはできませんが、執り成しの務めが与えられています。わたしたちが、キリストに続く者として召されたのは、この執り成しの働きのためです。そのため、わたしたちは、聖霊に満たされ、聖霊に導かれる必要があります。
主イエスは、荒れ野で40日間を過ごし悪魔から誘惑を受けられました。荒れ野での40日は、わたしたちにイスラエルの民の40年の荒れ野の生活を思い起こさせます。神の民イスラエルは、エジプトから解放された後、40年の長きにわたり神の試みを受けました。わたしたちも、洗礼を受けたあと、荒れ野に送り出されます。思わぬ試練に晒されます。真剣に祈り、迷うときは先輩の兄姉に助言していただかねばなりません。
神の民イスラエルは荒れ野でまず飲み水に困りました。水はありましたが苦くて飲めませんでした。(出15:22~25)。イスラエルの民はモーセに不平を言いました。わたしたちは、教会生活とこの世の生活の両方をこなそうと無理があります。主イエスは仰せになりました。「だれでも、二人の主人に仕えることはできない。一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。」(マタイ6:24)わたしたちは両方を選ぶことはできません。どちらかに軸足をおくことになります。モーセが主に向かって叫ぶと主は彼に一本の木を示されました。その木を水に投げ込むと水は甘くなりました。主イエスは仰せになりました。「この水を飲むものは誰でもまた渇く。しかし、わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(ヨハネ4:13~14)疲れを感じるとき、静かに目を閉じて祈りましょう。新鮮な泉がわき上がるのを感じることができます。
次に、訪れた試練は、食べるものがないことでした(出16:1~36)。人々はモーセに向かって言いました。わたしたちは、エジプトで、肉の沢山入った鍋の前に座り、パンを腹一杯食べられた。わたしたちは、信仰生活にこの世における力が欠けていることに気づき不満を持ちます。しかし、主は仰せになりました。わたしはあなたたちのために天からパンを降らせる。人々はこれをマナと名付けました。コエンドロの種に似て白く、蜜の入ったウェファースのような味がしたといいます。神がくださった食べ物は力が出そうには思われませんでした。しかし、人々は不思議な神のちからに支えられ、務めを果たしました。主イエスは仰せになりました。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」(ヨハネ6:35)
最後の試練は、シナイ山に到着したときに訪れました。モーセはシナイ山に一人で登り、神に出会い、神から十の戒めを受け、下山しました。しかし、民は待ちくたびれ自分たちで、金の飾りを溶かして、金の子牛を造り、これを拝みました(出32:1~35)。モーセは怒り、神の戒めが書かれた二枚の板を粉々に砕きました。わたしたちは、神や隣人を愛する生活よりも、自分の快楽や成功を愛する傾向があります。金の子牛はその象徴です。隣人を愛し、つつましく生きることに我慢できなくなり、強い家庭、強い民族、強い国家を目指すようになります。結局、神を捨て、成功と破滅への道を歩み始めます。
主イエスは仰せになりました。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなた方を愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ13:34)主イエスは、モーセが神の戒めをイスラエルに与えたように、新しい戒めをくださいました。わたしがたちが求めるべきは、この世の成功や支配ではなく、互いに愛し合うことです。 主イエスは、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていたと記されます。わたしたちも、悪魔の誘惑の中で、神の天使によって守られています。信頼を持って神に従いましょう。
(2010年 5月2日礼拝説教)
月報「あかしびと」第470号 巻頭言