礼拝説教 2010年4月4日

「あの方は復活なさった」

  ルカによる福音書 23章56節b〜24章12節

  牧師 福井 博文

 

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 マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、何人かの女性たちは、十字架における主イエスの死に立ち会った後、金曜日の夜から土曜日の夕方にかけて、いたたまれない思いで、家に留まっていました。安息日だったからです。そして、週の第一日の朝早く、女性たちは、途方に暮れました。

 女性たちは、人間的な思いにおいて行き詰まりを経験したのです。わたしたちは、人間の常識において、どう考えればよいかわからなくなることがあります。そのとき、慌てないで、祈り待つことが必要です。そのとき、輝く衣を着た二人の天使が出現しました。天使はいつも神のみ業が始まるとき出現します。そして、神のお考えとこれからの行動を私たちに伝えてくれます。主イエスは死者の中におられない。生きておられる。ここにはおられない。復活された。

 この天使のみ告げを聞いた女性たちは、主イエスがなさった約束の言葉を思い起こしました。一、人の子は罪人の手に渡される。二、十字架につけられる。三、三日目に復活する。女性たちは、この約束の言葉を想い起しました。それを信じました。信仰とは、神のお約束を信じそれに相応しい生き方をすることです。ルカが書いた使徒言行録16章31節に「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」と記されます。信じ行動する者には、それに相応しい祝福が与えられるのです。

 わたしたちは、いつも神の恵みに与ることをよしとせず、自分の持てる何かを差し出し神に喜んでいただこうとする傾向があります。「わたしには、こんな知識があります。こんな技能があります。こんな富があります。こんな経験と実績があります。ですから神様、わたしに良い待遇を与えてください」と言うのです。しかし、神様は苦笑なさっています。「それらは、すべてわたしがあなたに与えたものではないか」と言われます。

 こういったわたしたちの差し出しは、神には何も意味も持ちません。神が私たちに求められるのは、砕けた魂です。自分を誇るのでなく、神により頼む心です。ルカ18章9~14節にファリサイ派の人と徴税人のたとえが残されています。徴税人は神から遠く離れ、「神様、わたしを憐れんでください」と祈りました。義とされて家に帰ったのは、この徴税人でした。

 女性たちは、仲間のところに帰り、十一人の弟子と他の弟子たちに、自分たちが経験したこと、信じたことを伝えました。ところが、弟子たちは、これをたわ言として、取り合いませんでした。使徒パウロが、ギリシャの首都アテネで、復活の説教をしたとき、人々は、「その話はまたあとで聞こう」と言って取り合いませんでした。理性を重んじ、合理的精神を大切にしたギリシャ人が、耳を貸さなかったのは、当然のことでした。

 しかし、理性や合理的精神は、人間のことですと有効ですが、神のこととなりますと必ずしも有効ではありません。神のことは、信頼するということがなければ、何一つ分かってきません。ここで、天使が語った主イエスの復活は、わたしたちの血肉の蘇生ではありません。神がご用意くださった新しい身体を戴くということです。主イエスはその初穂となられました。パウロは、コリントの信徒に、空の鳥には、それに相応しい身体が与えられている。それと同じように、わたしたちの新しい命にはそれに見合った新しい身体が与えられるといいました。こんな有り難いことはないと思います。ですから、「よろしくお願いします」と応答するのです。

 ペトロは、ただ一人墓に走り身を屈めて中をのぞきました。「願わくは、本当であって欲しい」という思いがペトロを走らせました。神はその願いに応えて、主イエスの復活のお姿をペトロにもお示しくださいました。復活祭はわたしたちが神のみ前に素直で、謙虚な心を取り戻させて戴く日です。幼子のようにならなければ神の国に入ることはできません。「神さま、わたしは裸で生まれ、裸で帰っていきます。どうぞ、よろしくお願いいたします」と祈りましょう。

 

(2010年 4月4日イースター礼拝説教)

 

月報「あかしびと」第469号 巻頭言

 

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