礼拝説教 2010年 3月14日
「 道の途中にあって 」
本日の礼拝をもって、 東中通教会の代務者とこの一年の奉仕が終ります。 通算しますと二十一年になります。 この一年は、 予定していなかったことでしたが、 振り返れば、 神さまの奇しき配剤でした。 無牧の中で、 新潟地区の多くの教師からも、 み言葉の恵みをいただきました。 無牧の一年は、 荒野の一年であったと思いますが、 それはまた、
荒野でなければいただけない訓練と恵みの期間でもありました。 この感謝の思いの中で、 受難節 (復活前) のみ言葉に聴きたいと思います。
「それからイエスは弟子たちとフィリポ・カイザリヤの村々へ出かけられた。 その途中」 のことでした。 主イエスは、 弟子たちに 「人々はわたしをだれだと言っているか」 と尋ねられます。
弟子たちは、 ヘロデの耳にも入った評判のように、 「バプテスマのヨハネ、 エリヤ、 また預言者のひとり」 だと答えました。 それは 「あんな力が、 彼のうちに働いている」 (六一四) ことは、 これらの人物以上のものだという評価でもあります。
そこでイエスは、 今度、 弟子たち自身に聞かれます。 「それでは、 あなたたちは、 わたしを何者だと言うのか。」 これは単に評判を聞いておられるのではありません。 もっと深い神のみ子の本質に関る問いであります。 求道のとき或いは受洗後のキリスト者としてのときのことかも知れませんが、 その道の 「途中で」 主は問いかけられるのです。
ペトロが答えます。 「あなたはメシア (キリスト) です。」 わたしたちは、 いつも自分は何者か、 と自分を探しています。 特に若い時代は、 わたしはどこから来たのか、 何故生まれたのか、 どうしてこの容姿でこの家族の中か、 そして、 これからどこへ行くのか等と考えます。 しかし、 自分というものは、 いくら自分だけのことを考えても分からないものです。 大海の中の帆船が、
太陽や星を見て、 自分の位置が分かるように、 わたしたちを超えた、 大きくてその時々の風や潮の流れに動かされないもの、 それが基準にないと分からないのです。
主イエスは、 わたしたちの旅の途中で、 「あなたは、 わたしを何者だと言うのか」 と尋ねられます。 わたしたち、 また教会に向き合い、 こう問われる主にお答えするとき、 そのことによって、 わたしたちはどんな者か、 どのような道に行こうとしているのか、 という応答でもあるのです。
そこで主イエスは、 これからエルサレムで受けられる十字架と復活について語り始められます。 「人の子は必ず多くの苦しみを受け、 長老、 祭司長、 律法学者たちに捨てられ、 殺され、 三日の後によみがえらなければならない」 しかも、 このことを、 はっきりと話されたのです。
だが、 この受難と復活予告を聞いたとき、 弟子たちは一様に驚いたのに違いありません。 早速、 ペトロが反応します。 ペトロは、 主をわきへお連れして、 いさめはじめました。 そんなことがあろう筈がありません。 何と言われます。 とんでもないことです、 とわたしなら言ったでしょう。 主の語られた道は、 ペトロが思い描いていたメシアの道と大きく違うものであったからです。
「しかし主イエスは、 振り向いて弟子たちを見ながら、 ペトロをしかって言われた。サタンよ退け」 この 「退け」 というのは、 「私の後に引き下がれ」 ということです。 「あなたはメシアです」 と応える者の立ち位置は、 主の前ではありません。 また主を自分のわきに引きよせ、 自分の思う所の道に連れ込むことでもない筈です。 そのようなことは、
サタンが荒野でしたことでした。
わたしたちが、 主イエスとの関係で立つ位置は、 キリストの前でなくキリストの後、 キリストフォロスとして従っていく道であります。
詩篇二十三篇で、 羊飼いである主イエスは、 わたしたちをみどりの原、 憩の水の畔へと、 即ちいのちの源へと導いてくださることを唱っています。 だが、 この道は平坦ではなく、 その途中には、 死の陰の谷もあるのです。 困難で苦しみを覚悟しなければならない所もあるのです。 でも、 そこにも主は先に歩んでおられ、 共におられるのです。
主イエスは今、 メシアとして十字架と復活への道を歩まれます。 わたしたちの救いのために、 苦難の十字架に向かって、 歩まれます。
わたしたちは、 道の途中にいます。 それぞれの歩む道の途上で、 イエスを主メシア (キリスト) と告白し、 主の後に従う者でありたいと祈ります。
(2010年 3月14日礼拝説教)
月報「あかしびと」第468号 巻頭言