礼拝説教 2010年 2月14日

「 信仰による従順へ 」

ローマの信徒への手紙 第1章1~7節
福井博文牧師(長崎古町教会)

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 パウロは手紙の初めで自分のことを 「キリスト・イエスの僕」 と紹介しました。 「僕」 は奴隷という意味です。 旧約聖書を編集したイスラエルは奴隷としてエジプトの地で永く苦しめられた歴史を持っています。 信仰は、 この奴隷からの解放の過程で生じました。 解放が救いの現実でした。 主イエスがお生まれになった時代も、 世界の至る所で、 戦争に敗れた民族が奴隷となり苦しんでいました。
 パウロは奴隷の悲惨さをよく知った上で、 キリスト・イエスの奴隷と言いました。 パウロは、 当時の社会常識や罪から解放され、 主イエスに仕える者とされたことを告白します。 「しかし、 わたしたちがまだ罪人であったとき、 キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、 神はわたしたちに対する愛を示されました。」 (ロマ5章8節)
 ここでパウロは忠実な 「僕」 ということも言います。 「こういうわけですから、 人はわたしたちをキリストに仕える者、 神の秘められた計画を委ねられた管理者と考えるべきです。 この場合、 管理者に要求されるのは、 忠実であることです。」 (Ⅰコリント4章1節~2節)
 パウロの誇りはこれに留まりません。 「神の福音のために選び出され」 と続きます。 「選び出され」 るは分離するという意味です。 パウロは、 その生涯を、 自分のために生きるのでなく、 神のために生きる者とされました。 わたしたちは、 自然のままですと、 自分のために生きようとする傾向があります。 この 「選び出され」 るという言葉の意味を深く味わいたいと思います。
 選び出されたのは 「神の福音」 のためでした。 「神の」 の 「の」 は、 神がご用意くださったという意味です。 福音の出来事は神の力によって実現されました。 神の支配がここに始まったのです。 神の国は、 武器によってではなく、 祈りによって築かれます。 パレスチナのガザ地区で検問の兵士に 「あなたは武器を持っていますか」 と問われたマザー・テレサは 「はい、 持っています。 ただし、 わたしの武器は祈りです」 と答えました。
  「召されて使徒となった」 の 「召され」 は 「大声で名を呼ばれる」 という意味です。 パウロは大声でこちらに来なさいと呼ばれました。 そして使徒に任命されたのです。 「使徒」 の定義は主イエスの復活の証人とされ、 遣わされた者ということです。
 パウロは自己紹介の後、 「この福音は、 御子に関するものです」 といって福音の本質について説明します。 福音は当時盛んであったローマの神々のことではありません。 救い主として崇められていた皇帝のことでもありません。 御子イエスのことなのだと言います。 まことに信仰はこの主イエスを通してのみ啓示されます。 更にこの福音は 「聖書の中で預言者を通して約束されたもので」 した。 旧約聖書のイザヤ書、 エレミヤ書、 エゼキエル書、 ミカ書等には神の救いの約束が確かに書かれています。
  「御子は、 肉によればダビデの子孫から生まれ、 聖なる霊によれば、 死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。」 主イエスは、 人間としてダビデの子孫でした。 霊の存在でなく、 実在の人物でありました。 しかし、 同時に、 主イエスは、 聖霊によって母マリアの胎に宿られ、 成長され、 学び、 洗礼をお受けになり、 悪魔の試みに遭われ、 誘惑に勝利し、 教え、 癒し、 十字架に掛けられ、 復活させられました。 これらはすべて聖霊の導きによるものでした。 このことによってまことの神の子であると証明されたのです。
 最後にパウロは自分の使徒の務めを 「その御名を広めてすべての異邦人を信仰による従順へと導く」 ことと述べます。 これは異邦人に対するユダヤ人パウロの優越感、 宣教における成功者の傲慢でしょうか。 パウロの信仰者としての実存を支えていたのは神の恵みに対する畏れと感謝でした。 砕かれた心と謙遜でした。 パウロは、 自分と同じように、 異邦人にも感謝と喜びに満ちた生涯を送ってもらいたいという願いを込めてこのように書いたのです。 ここには植民地拡大主義といった、 わたしたちが誤って抱き勝ちな動機は含まれていません。
 わたしたちはいま自由を与えられ、 主イエスのものとされ、 喜びをもって主に仕える者とされました。 いまだこの世の制度的枠組や思いに捕らえられている人々にこのよき訪れを届け、 神の国の働きに参与する者となって戴けるよう祈りたいと思います。

 

(2010年 1月24日礼拝説教)

 

月報「あかしびと」第467号 巻頭言

 

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