礼拝説教 2009年 7月12日
「 この日、神の霊が注がれて 」
「五旬祭の日が来て、一同が一つに集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ」使徒をはじめ約百二十人あまりの一団の人々の上に、聖霊が降りました。これがペンテコステ(第五十という意味)聖霊降臨日の出来事です。この日、教会が誕生し、聖霊の時代が始まりました。
聖霊は、三つの表象、しるしをもって降りました。風と日と舌です。
「風(プノエー)」というギリシア語は、「霊(プニューマ)」と「吹く(プネオ-)」という言葉から出ています。南房教会は、高台の上にあり、いつも風が吹いていますが、風に表わされる霊は、活発で活動的なことを示しています。
旧約に預言者エゼキエルの見た幻が描かれています。預言者は、枯れた骨の満ちた谷の真中に立っていました。殺された無数の人々の骨が谷を満たしていました。戦慄する死の世界です。神は彼に命じました。「霊よ、四方から吹き来れ。そうすれば、彼らは生き返る。」預言者がそのように預言すると「霊が彼らの中に入り、彼らは生き返って自分の足で立った。」(エゼキエル37:9~10)
聖霊が降るとき、そこには今まで無かった新しいことが起こるのです。最初の人アダムが、神の息で生きた者となったように、聖霊が降るとき、そこに"新しい人間"が創造されるのです。枯れた骨が、「非常に大きな集団」になったように、新しい人間の共同体、新しいイスラエルとしての教会が創造されたのであります。
聖霊は「炎」のような舌のかたちで現れました。火は、しばしば神の現臨を表すときに用いられます。モーセは、荒れ野の奥、ホレブ山で柴の燃え上がっているのを見ました。柴が燃えているのに、燃え尽きないのを見ていると神の声を聞きました。「ここに近づいてはならない。足から履き物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は、聖なる土地だから。」(出エジプト3:5)また、荒れ野を旅するイスラエルに、神は昼は雲の柱、夜は火の柱となって、導き給いました。
火はまた、罪を焼き尽くし、清める火でもあります。バプテスマのヨハネは、水で悔い改めの洗礼を授けましたが、イエス・キリストについてこう語りました。「見よ。世の罪を取り除く神の子羊だ。」(ヨハネ1:29)そして「その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。」(ルカ3:16)
使徒たちは、いろいろな過去を持っていました。主を否定し、主を見捨てて四散した弟子たち。仲間同士を較べ合い、信じないサマリアの村に敵意を抱いたり、不信仰で臆病かと思えば不遜で傲慢であったりしました。それは、彼らだけが不充分ということではなく、私たち一人一人の姿でもあります。
しかし聖霊が降ったとき、彼らの全ての罪は焼き尽くされ、彼らは神の器として、新しく立てられたのでした。
聖霊は、炎のような「舌」に分かれて、一人一人の上にとどまりました。「舌(グローサイ)」複数形は、「言葉」を意味します。「一同は聖霊に満たされ、"霊"が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」人々は、音を耳で聞くだけでなく、口を開いて言葉を語り出しました。聖霊は、福音を語る賜物、預言と証の賜物を私たちに下さいます。この後、ペトロの説教が続き(十四節以下)この他にもいろいろ話をして、力強い証をし、「邪悪なこの時代から救われなさい」(2:40)と勧めていた、とあります。
この賜物は、「一人一人の上にとどまった」とありますように、教会は共同体でありつつ、一人一人の個性や賜物を重んじ、決して一様ではありません。それぞれの違いや個性に従い、その一つ一つがかけがいのないものとして組み合わされ教会が形成され、福音が語られるのです。
かつて地上を歩まれる主イエスに弟子たちは依存していました。主がおられなければ混乱と戸惑いがありました。
しかし、主は昇天され、神の右に高く座し給います。主の働き(ミニストリー)は、今や地上に残された使徒たち一団の人々、私たちに託されたのです。私たちは、この主から委ねられた主の働きとしてのミニストリーを受け継ぐものとなりました。地上の主イエスの時代は終わり、聖霊によって教会の時が始まったのです。聖霊を感謝し、主の証人として歩みましょう。
(2009年 5月 30日礼拝説教)
月報「あかしびと」第460号 巻頭言