礼拝説教 2009年 4月 5日

「 今日はぜひあなたの家に 」

ルカによる福音書第19章1~10節

大澤秀夫 敬和学園大学宗教部長

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講壇にお招きいただきましたこと、また日頃、 敬和学園のために祈り、お支えくださいますこと、心から感謝いたします。東中通教会は三人の先生方を送って今、無牧の中、 新しい年度を歩みだそうとされていますが、私たちはこの朝、ご一緒に、 真の羊飼いである主イエスに、思いを傾けることといたしましょう。
  エリコという町
 さて、本日は棕梠の主日、この日から受難週に入ります。ルカ福音書では19章28節以降に主イエスのエルサレム入城が記されていますが、その直前にあるのが今日のザアカイ物語です。私たちは今朝、この二つを一つのこととして受け止めたいと思うのです。
 さて、冒頭1節に 「イエスはエリコに入り、町を通っておられた。」とあります。 この言葉一つで私たちはすでに、深く思いめぐらすことへと導かれる気がいたします。主イエスがある町を通られる。すると、 そこには必ず何か新しいことが起こる。エリコでそれが起こりました。そして、 そのことは今日この新潟でも起こるのです。そのことを私たちは、この朝、 信じて集まって来たでしょうか。もしかしたら、そんなことを考えもしないで、私たちは礼拝に集まって来たかも知れません。礼拝後の予定もしっかり立ててきたのでしょう。しかし、 主イエスにお会いするということは、そういうことではありません。新しいことが起こるのです。自分の計画が全部ひっくり返ってしまう。新しい人間が生まれるのです。それが礼拝に集うということです。それは、 はなはだ危険なことでさえあるのです。
  ザアカイという人
「そこにザアカイという人がいた」(2節)。 どこの町にもいろいろな人がいます。当たり前のことです。しかし、 「ザアカイ」という名前があげられる時に、そこに一人の具体的な人間の姿が立ち上がってきます。笑い、 泣き、 さけび、訴える、 希望も、絶望もあわせ持った一人の人間、それがザアカイです。その人がその人であることを誰も代わることはできません。そのような一人が、そこにいます。それは私たちのことでもあります。
 今日の物語のすぐ前に、物乞いをしていた盲人の話があります。この人にしても、マルコ福音書 (10章46節)によれば、 ちゃんとバルティマイという名前があります。この二つのエピソードは対の物語です。一人は物乞い、 もう一人は金持ちですが、彼等には共通点があります。二人とも主イエスに向かってひたすらに走りました。今日、 ここに集まっている私たちもいろいろ考えれば、それぞれにみんな違っています。しかし、 私たちを貫く共通点があります。それは、 主イエスに向かって走るということです。
 ザアカイという名は、「純粋な者」 という意味です。これを聞いて私たちは、皮肉な気がしないでもありません。なぜならザアカイは、当時のユダヤ人からは不純な者と賤いやしめられた徴税人なのですから。しかし一人の人間の名前には祈りが込められているのではないでしょうか。私たちはどんな親であっても、祈りを込めて子どもの名を呼ぶものです。どんな人の背後にも祈りがあります。そして、 どの一人のいのちの背後にも、神の思いが置かれているということが、後になって分かるのです。
 このザアカイは主イエスを見たいと思いました。しかし、 群衆に遮られて見ることができません。ザアカイは前に向かって走り出します。それどころか、いちじく桑の木にさえよじ登ります。「純粋な者」というザアカイの名の意味はここに発揮されています。
  主イエス
 さて、私たちはここで、ザアカイとバルティマイの二つの物語は、主イエスのエルサレムへと向かう旅の中にすっぽり包まれていることに注意したいと思います。 18章31節と19章28節には「エルサレムへ上って行く」という言葉があります。主イエスのエルサレム入城とは他から孤立した出来事ではありません。主イエスはバルティマイやザアカイの思いを真っ直ぐに受け取って、引き受けて、 エルサレムへと進んでいかれたのです。
「ザアカイ、急いで降りてきなさい。今日は、 ぜひあなたの家に泊まりたい」(5節)。 主イエスの心にはザアカイの心がビンビン届いたのです。だからこそ、 主イエスは呼びかけ、彼の家に入ってくださいました。主イエスがザアカイの内に入り、生きてくださる、ということが始まる。そうだとしたら、そこにまったく新しいことが始まるというのは当たり前であるのです。
  エリコの町で起こったこと
 ザアカイは立ち上がって、主に言った。 「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、 だれかから何かだまし取っていたら、それを4倍にして返します」(8節)。 それは当時の律法の規則、常識からしたら驚くべきこととも言えますが、同時に当たり前のことでもあります。なぜなら、 それは正義を行い、分かち合いに生きるという、単純なこと、神の前に生きる人間の本来的な姿だからです。
 ザアカイのふるまいの土台にあるのは、義務や強制ではありません。「ザアカイは急いで降りてきて、喜んでイエスを迎えた」(6節)。 喜びこそがザアカイを分かち合う生活へと押し出しました。そこに新しい人間が生まれたのです。「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである」(10節)という結びの言葉は、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を追い求める真の羊飼い(15章1節以下)の愛を思い出させないでしょうか。
 主イエスは立ち止まって、人々から黙れ!と押しとどめられようとしたバルティマイの叫びを聴いてくださいました。主イエスは、群衆の向こう側を走るザアカイの思いを受け取ってくださいました。今日、 主イエスは同じく、ここに集う私たち、どの一人の叫びをも受け取ってくださる方です。
 今日は、主イエスがエルサレムに入城された記念の日です。私たちは、この日を主イエスが私たち一人一人のからだの内に入ってくださる入城の日といたしましょう。主イエスが入城してくださることによって始まる、深い安心と喜び、 そして、その喜びに根ざしてこそ実現する、正義を行い、 分かち合いに生きる一年といたしましょう。

 

月報「あかしびと」第458号 巻頭言

 

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