礼拝説教 2009年 3月 3日
「 十字架の道の回避 -荒野の誘惑- 」
「イエスは悪魔から誘惑を受けるため、"霊"に導かれて荒れ野に行かれた。」
この誘惑の記事は、主イエスが、洗礼をお受けになられた直後に配置されています。主の受洗は、十字架による救いの道への出発でした。この道の進路を変え、十字架を通らない別の道のメシアへと、悪魔は誘惑したのです。それはまた、私たちにも、キリストに従う道の中で、よく起こることなのです。
第一の誘惑は、石をパンに変えようとするものでした。四十日に及ぶ断食は、肉体的生命を保つ、限界点です。諸々の雑念は、断食によって吹き払われたにせよ、最後に命を保つかどうかの問題は残ります。
まさにこの時をねらって、悪魔が忍び寄ってきました。「(もし)神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」悪魔はイエスの心象風景として、ささやきとして忍び込んできました。
「神の子なら」という呼びかけは、この石をパンに出来ないのなら、神の子ではない、ということです。それは、洗礼のとき、天から聞こえてきた「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という神の声を疑わせるものでした。
しかし、主イエスは「『人はパンだけで生きるものではない。 神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』」とお答えになりました。この言葉は、申命記8章3節からの引用で、荒野を旅するイスラエルの民に、神が語られたものです。神は、民の天幕に、マナという食物を毎日、降らせました。これは、私たちが単に物質的必要だけで生きるものでなく、魂を満たす神の言葉、即ち真の霊的必要によって生かされるものであることを教えるためでした。
そのために、私たちは、まず第一に主日の礼拝を大切にしなければなりません。そこで語られる言葉(説教)とそこで食する言葉(聖餐)の恵みによって、神の民は整えられ、生かされるのです。また、それと共に、日々の礼拝、日々の祈り、日毎の糧を通して、主のみ言葉に親しむ者となりましょう。
第二の誘惑は、神を試みるものでした。悪魔は主イエスをエルサレム神殿の屋根の端に立たせ、「神の子なら飛び降りたらどうだ」と言い、詩編91編11、12節を引用して、「『神があなたのために天使たちに命じると、 あなたの足が石に打ち当たることのないように、 天使たちは手であなたを支える』 と書いてある」と誘います。
パンの誘惑を退けるとき、主がみ言葉を用いたのを、逆手に取り、悪魔も神の言葉をひっぱってきます。神殿から飛び降りることは、何の意味もないことです。このようなサーカスに人々は、一時的には驚くかも知れませんが、主の本来的使命に本質的に関わることではありません。
だが悪魔の狙いは、神の保護とみ言葉に対する疑いを持たせることにあります。かつて、エデンの園で、賢い蛇は「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか」(創世記3章1節)と唆したのでした。
私たちも、時々、本当に神さまは私を愛して下さっておられるのだろうか。私のことに関心を持って、将来を導いて下さるのだろうかという思いを持つことがあります。そこで、何か、主の守りや導きを確かめたくなるのです。しかし、それは、私たちが試験官になり、神さまを試験管の中に入れて、確かめることなのです。
しかし、主イエスは、毅然として言われました。「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある。」主イエスの向いておられるのは、父なる神に徹底して服従する十字架の道なのです、
第三の誘惑は、この世の王国の支配でした。「世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて」悪魔は誘います。「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう。」
当時、ローマ皇帝は、「主なる神」(ドミニス・エト・デウス)と呼ばれていました。力と繁栄をもたらすメシアの道はどうか。人々の熱狂的な歓迎の声が、向こうに響いているようです。でも、その道は、十字架の苦難と服従の道と、全く正反対の道であります。また、「わたしをおいて他に神があってはならない」という十戒の最初の戒めに挑戦するものです。
しかし、主は「『あなたの神である主を拝み、 ただ主に仕えよ』 と書いてある」と宣言されました。主は「"霊"」に導かれて荒野に行かれました。それは、主が悪魔に勝利し、十字架の道を一層明らかにし、歩まれるためでした。この主が共におられるのです。
月報「あかしびと」第456号 巻頭言