礼拝説教 2008年12月21日クリスマス礼拝説教

「 救い主を迎える心 」

ルカによる福音書2章1~14節
原田史郎牧師

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 赤ちゃんを見ると誰もが笑顔になります。何の力もない赤ちゃんですが、人の心を和ませ、優しい心にする不思議な力を持っています。
 救い主イエスは、憎しみや怒りのため、心が荒れているわたしたちのところへ、この赤ちゃんの姿をとって来てくださいました。このことの中に、わたしたちひとりひとりに対する神さまの愛があります。
 ヨセフと身重のマリアとが、ベツレヘムに来たとき、「宿屋には彼らの泊まる場所」はありませんでした。
 これは、皇帝アウグストゥスから、全領土の住民に登録せよ、との勅令が出ていたからでした。人々は、生まれた地で住民登録をしなければなりません。このため、小さなベツレヘムの宿は、どこも満員だったのです。
 恐らく、ヨセフは、身重の妻の身を案じ、必死の思いで、宿屋の扉を叩き、部屋を貸して欲しいと訴えたことでしょう。だが、彼らの宿る場所は一隅といえどもありませんでした。
 このことは、今日のわたしたちの心の状態をよく表していないでしょうか。わたしたちの心には、他人の、時には親や親友でも立ち入るこの出来ない心の聖域があります。それは「心の奥座敷」ともいうべきところで、自分の中心、自分の一番大切な場所です。
 かつて日本の家屋には、客間というものがありました。居間と違って、普段そこに子どもたちは入りませんし、遊ぶ場所でもありません。床の間には掛け軸がかけてあり、いつも花が活けてありました。特別なお客様が見えたとき、そこにお通しして主人が応対します。
 最近の住宅は洋間の故か、あまりこういう部屋は無いようです。広いお宅では、ゲストルームを設けている家もあるでしょう。
 客間が無くなったとき、空き部屋は倉庫のようになります。不要な季節用品と不要になったガラクタが、部屋いっぱい占領してしまいます。
 わたしたちの一番奥深い客間は、本来、神さま、聖なるお方をお迎えする部屋なのです。ところが、わたしたちは、その部屋を自分の欲望のために、つまらない、いずれは無価値になってしまうようなもので、いっぱいにしてはいないでしょうか。
 「希望の園」の機関紙に書いたことですが、近江商人は、商売する場所を御堂の鐘の音が聞こえるところに定めました。商売するとき、鐘の音を聞き、正直でありたいと考えたからでした。ところが、今日、商売、ビジネスはただ利益をあげること、儲けるためにだけのものになってしまいました。そこから食品偽造や様々な偽りが行われ、欲望だけの資本主義は、今、破綻の瀬戸際にあるのが現状です。これはまさに、聖なるお方の「泊まる場所」を見失ったわたしたちの姿なのです。
 マリアは、月が満ち初子を生み「布にくるんで飼い葉桶に寝かせ」ます。当時、貧しい人は、時には飼い葉桶をベビーベットとして使うこともあったようです。だが、それにしても、そこは普通、赤ちゃんが休むところではありません。飼い葉桶は限りなく貧しさを表しています。道端で、冷たい暗闇の中、見捨てられたようなところで、救い主イエスはお生まれになりました。換言すれば、救い主を受け入れたのは、宿屋の快適な部屋や、ヘロデの住んでいる豪華な宮殿でもなく、最も貧しい家畜小屋の飼い葉桶でした。何も誇るものをもたない心、いや、それだけでなくこの世の痛みや苦しみに傷ついている心。愛を失い怒りや焦燥感でイライラしたり、人を非難する心。
 でも救い主は、そんな粗末で何の価値もない心に、来てくださったのです。そこに赤ちゃんの柔和と愛の穏やかな平和をもたらしてくださるのです。何と有難度いことでしょう。
 救い主誕生の知らせは、野にある羊飼いたちに告げられました。彼らもまた低くされた人々でした。汚い、臭い、危険の3Kの中で、市民権も持たず、ベツレヘムの盛況から切り離されていました。しかし、神さまの愛は、しっかりとこのような人々に向けられていました。
 ベツレヘムの生誕の地を訪ねたことがあります。教会の横の小さな洞穴から地下室に入ります。小さい狭い階段から降りるので、小さく身を屈めなければ入れません。入るとそこには、大きなダビデの星の床石が貼ってあり、巡礼者が、手を置いて祈っていました。
 救い主をお迎えする心、それは心を低くして、主よ、わたしのこの貧しい心に来てくださいと祈る心であります。主をお迎えするには、あまりにも相応しくない心。だがその心の故に、主は来てくださったのであります。

 

月報「あかしびと」第454号 巻頭言

 

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