礼拝説教 2008年11月23日
「 『今日、救いがこの家を訪れた』 」
ルカによる福音書19章1~10節
滝瀬 一牧師
わたしたちが聖書から聞き、学ぶことが出来るのはいつも、わたしたちの命の救い主であるという、聖書の神の子イエス・キリストであります。
今日のみ言葉の説教において中心聖句として掲げました「イエスは言われた。『今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである』」、この主イエスの言葉は、親しまれ、愛されたこの物語の内でそれそのものである言葉です。神の子イエスが、わたしたちの世に来てくださったその喜びを明確に伝えるものです。真実に強い響きを持った言葉であると思います。わたしたちはいつもそれが分かるようでいたいのです。今日、救いが訪れた、今日こそ、神の救いがここに来た、起こった。その救いがついにこの人によって、今日、与えられてきました。この救いの喜びのその大きさは昔からこんなふうにも言われてきました。天もどよめくほどの喜びが今日やって来た、と。神のその救いは「失われたものを捜して救う」というものです。だから、失われていたのに、いなくなっていたのに、ついに見つかった喜びが、あの救いの喜びであるのです。この主の物語については、わたしたちの目に実際に見えるようだというほどの描き方がなされている、と言われることがあります。そこには、主によるザアカイという一人の罪人の救いの物語が、わたしたちのために、こころを籠めて、丹念に描かれているのです。
そのザアカイというのは、正しい人、という意味を持つ、そんな願いの籠められた名前です。けれどもこのザアカイという人は、実際には、何がその原因であったのか、新約聖書において罪人の代表とされた徴税人のその頭でありました。それで、彼のその生き方は一言で言うなら正に「失われたもの」のそれでありました。ザアカイは愛し愛されて共に生きるという、真に人間らしい生き方から失われ、そこからいなくなってしまっていたのです、救われて生きるということから遠くとおく離れて生きる者の姿がザアカイの生き様でありました。彼の懐には、人から奪うようにして得た、たくさんの金はあるのかもしれない。けれどもザアカイは、自分のその生き方、生き様によって今や、愛を失った者、否、愛から「失われたもの」になっていたのです。彼は独りです。ザアカイは愛の内から失われたもの」、いなくなっていた者でありました。
「失われたもの」、いなくなっていた者。実に惨めに聞こえる。わたしは愛の内から「失われたもの」、いなくなっていた者、それで、惨めな者である。それが罪人です。これは、わたしたちの誰にもどこか分かることではないかと思います。力や、偽り飾ることや欲望によって、わたしたちは愛の内に生きることからまったく簡単に失われ、いなくなってしまう。共に生きる人のために出来る限りに益を計り、彼に対して真の愛を働く、そう励むことに、すぐに挫け、怠ける。そう聞かされてわたしたちは、やはり、自分の惨めさを覆うべくもないと思います。ああ、わたしも「失われたもの」、いなくなっていた者なのだ。ザアカイにそっくりではないか。そしてそれだから、それだから、そのように、愛から自ら離れ、罪の内に失われてしまっているわたしを、愛そのものである神が進んで尋ね求めて、救い出してくださる、なおご自身の子として生きることが出来るようにしてくださる。神のその救いが訪れるために、その救いのために、主イエスはザアカイのところに、このわたしたちの世に来てくださったわけであります。
主イエスは「失われたものを捜して救うために」来られた。神のわたしたちへの愛が主にそうさせずにはおれないようにしたのです。主はそうせずに、いなくなっていた者、「失われたもの」を捜し求めて、救わずにはおれない。神がわたしたちを愛しておられること、そしてその愛はどのようなことがあっても変わらないのだということ、そのみこころを主は明らかに示し、ご自身の命を懸けてこれを貫いてくださいました。それがわたしたちを救う聖書の神の救いであるのです。
そして、そう聞かされる時にこそ、ザアカイがそうであったように、わたしたちもまた、その一人ひとりが、わたしはこうしなければ生きていかれない、という生き方を見出すことが出来ると思います。主イエスがわたしをそう生かす。主によって、主のゆえにこう生きざるを得ない。そんな不自由、そんな義務であれば、それこそそこに、本当によく生きる、幸いに生きる、明るく生きる生活が、初めて生まれてくるのだと思うのです。
月報「あかしびと」第453号 巻頭言