礼拝説教 2008年11月 2日

「 闇の中の光、希望としての人間 」

創世記1章1~5節
原田史郎牧師

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聖書の開巻劈頭の言葉は、「初めに、神は天地を創造された」という短い宣言です。神は、はたして存在するのか、或いは存在しないのか、という議論ではありません。「初めに、創造された、神は」という力強い三つの語で始まります。
 神について、私が真剣に考えるようになったのは、高校3年の17歳のときでした。それまで、高校生向きの聖書を学ぶ会に出席したりしていましたが、神さまはおられるような、そうでもないような中途半端な気持ちでした。ところが、進路を考えるとき、神さまは、自分の人生にどんな関わりがあるのだろうか、という考えが、心に湧き上がってきました。三渓園という公園に行って、半日、沈思黙考しました。
 ところが、いくら熟考しても、神さまは、いるとも思えるし、いないとも思えるし、結局、そのどちらかに賭けるか、どちらかの道を選択するほかにないという結論になりました。そこから、求道生活が始まり、イエス・キリストを通して、神の愛を知ることが出来ました。
 聖書は語ります。「初めに、神は天地を創造された。」神からこの世界が造られ、人間が造られ、そして私たちが存在するのです。
 「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり」「地は形なく、むなしく」(口語訳)徹底した空虚とカオスがありました。この1章の物語資料は、祭司資料という創世記を構成している三つ(四つという説もあり)の資料の中では、一番新しいものです。大体紀元前538年から百年位の間、即ち南ユダ王国の滅亡、エルサレム崩壊の捕囚期から、捕囚後の時代に成立したといわれています。それは、希望を失った混沌で形のない、荒野のような時代でした。
 しかし、そこには同時に「神の霊が水の面を動いていた」とあります。この個所は二つの読み方があります。「激しい風、神の嵐が吹き荒れていた」(ニューイングリッシュ・バイブル、1970年)。もし、そうだとすれば、神は激しく嵐と戦う神であります。私たちを囲んでいる荒野のような死の状況、混沌と闇と戦う神がい給います。
 他方、「神の霊が水の面をおおっていた」(口語訳)という静かな状態なのでしょうか。この原語は、申命記では「鷲が巣を揺り動かし」(32:11)とも訳されています。揺れ動き、ブルブル振動しているという意味があります。神の霊は、水に表されるカオスと虚無の全体をおおい、次に起こる新しい事態に備えて胎動していると考えることが出来ます。
 私たちが絶望しているとき、或いは一寸したことでへこたれたり、落ち込んだり、前途を悲観しているときも、神の霊は、卵や雛鳥をおおう鷲の大きな翼のように、私たちをおおってくださっているのです。そして翼に乗せて運んでくださるのです(申命記32:11)。
 「神は言われた。『光あれ。』」この光は、太陽のような天体ではありません。大空の光は第四の日迄待たなければなりません。最初の光は、闇に対する光であり、虚無に対するいのちであり、混沌に対する秩序であります。そして、この光は、神の霊が動いて働いているように、私たちに対して無限に注がれる神の愛なのです。
 使徒パウロは「『闇から光が輝き出よ』と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました」(Ⅱコリント4:6)と書きました。この光は、闇と混乱の中にいる私たち人間に、イエス・キリストを示し、悟らせる光でもあるのです。
 続く第二の日以降、神は秩序正しく、天地を創造されました。そして第六の日、人間を創造されます。
 「神は言われた。『我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。』」神のかたちに似せて造られた私たちは、神の愛の対象として創造されました。
 創世記は、続く出エジプト記からヨシュア記まで、連続し共通した主題を持っています。それは、さまよえるアラム人がエジプトで抑圧の中で、ヤハウェに叫び、ヤハウェは、彼らの労苦を見、強いみ手を伸べ、大いなる業をもって、彼らをエジプトから導き出し、乳と密の流れる地を与えてくださった(申命記26:5~9参照)、という信仰告白です。それは今は闇の中、罪の中にある私たちに、神は、イエス・キリストを通して、大いなる救いの業をもって光と希望へと導いてくださるお方であることを語っているのです。

 

月報「あかしびと」第452号 巻頭言

 

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