礼拝説教 2008年 8月24日
「 『これからは、もう罪を犯してはならない』 」
ヨハネによる福音書8章1~11節
滝瀬 一牧師
この説教題を読み、主イエスのそのお言葉が語られるのを聞いて、わたしどもはどう思うでしょうか。わたしどもがこのお言葉と今日のこの聖書物語を正しく聞き、学ぶための聖書の福音信仰の要素があります。それは、三位一体の神の信仰です。
三位一体の神の信仰。これは、ただお独りであられる聖書の神は、わたしどもを完全に救うために、わたしどもの造り主である全能の父なる神として働かれる、また、その方のみ心に従い、わたしどもを罪から贖い、救い出してくださったみ子イエス・キリストとして働かれる、そしてそれを信じる時に、そうして救われた者としての生き方をわたしどもにさせ、この信仰の告白とそれによる生活を絶えず助け導き、終わりの時に備えられた完全な救いへと至らしめてくださる聖霊として働かれる、この信仰です。わたしどもは、わたしどもの教会の礼拝の中でこれを使徒信条において告白し、自分自身が完全に救われていることを、信じ続けています。
この信仰による時に初めて、今日のこの聖書物語を正しく聞き、学ぶことが出来る。聖書の神が成し遂げてくださった救いは完全である、わたしどもは完全に救われて生きることが出来る、だから、「『わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない』」と言われ、聞かれ得るのです。
ところで、そんなこの聖書物語でクライマックスに差し掛かるのは7節です。主はここで、姦通の罪を犯した女に向かって石を投げるように、確かに命じられました。しかし、石を投げてよい者を限定された。主は、罪の問題をそこに集まった者たちすべてに自分自身の問題として問い掛けられました。この女だけでない、その皆が罪を犯し、罪人であり、そしてその罪は偏に神に対してのものであることを示されたのです。すると「これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。」
主イエスのお言葉を聞いた者たちの反応否応答が描かれてきます。主のお言葉に直面した者たちは皆心打たれ、一人残らず疚しさを隠せずにその場を立ち去りました。皆が裁判権を放棄した。主は、罪を問題にする限り、それを示し、それを審き、そしてその結果それを赦すという力・権限を持っているのは、神お独りであることを暗示されました。一体誰が、神の側に立って神の義を代弁し、体現したかのように、罪を糾弾出来るか。あなたがたに罪はないのか、と。
この女を裁き、彼女に石を投げて打ち殺そうとした者は誰もいなくなった。しかしそこには女と、主イエスお独りが残りました。罪を問う裁判はまだ続いています。もともと女は姦通の現行犯として捕まえられました。その罪を言い逃れる術はないのです。この人は確かに罪人です。神は確かに生きていらっしゃるのに、そうでないように思い、振る舞ってしまった、罪人なのです。
この人を罪に定める者がいないということは、彼女の罪を審くことの出来る者がいないということです。それは、彼女の罪を赦す者もいないということになる。わたしどももこの人と同様に罪人です、その罪は必ず審かれなければならない。そしてその罪は、審きにおいて、赦しを受けなければならないのです。そうしてついに、11節を迎えます。「女が、『主よ、だれも』と言うと、イエスは言われた。『わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。』」
主のこのお言葉は罪の赦し、姦通を犯した女の赦しの宣言です。わたしは罪人である、自分の罪を巡って本当に苦しむほどに自覚している。その罪は必ず審かれ、処断されなければならない。しかしその審きにおいて、赦しが宣言される。この女がその罪を赦され、罪から解放され救われて、一層正確に言うならば、主により救われて、新しく生きるよう求められます。そしてこの新しい生、この新しい命、これが神との関わりに生きる、永遠の命です。「『これからは、もう罪を犯してはならない』」、これは、罪ある習慣を止めなさい、という断固たる調子の言葉です。彼女は一切の罪ともうきっぱりと手を切れ、と言われ、求められている。そうしなければならないのです。
父なる神の許から、わたしどもへの愛のゆえに、この世に来られ、わたしどもすべての罪人の罪を担い、それを赦して救うみ子主イエス・キリスト。わたしどもがその主のご生涯を通じた聖書の福音を知るということは、この物語に語られたことをよく知ることであると言ってよいと思うのです。
月報「あかしびと」第450号 巻頭言