礼拝説教 2008年 7月13日

「 ピリオッドでなくカンマ 」

マタイによる福音書14章22~33節、イザヤ書40章30、31節
原田史郎牧師

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 説教題は、4月、アメリカに隠退宣教師を訪問したときに知った、合同教会(UCC)の標語です。神の働きがもう完結して、結論付けられてしまうのでなく、今もなお、神は語り続けておられる、という意味です。
 弟子たちは、湖で逆風に悩まされていました。進むに進めず、戻るに戻れずという状態でした。恐れと不安がありました。もう、ここでお終いではないか、というピリオッドがありました。
 考えてみると、わたしたちの信仰生活にも、よくこのようなことが起こります。できれば避けたいことですが、突風のように予期しないことが、起こるのです。
 だが、突然のように見えることの中に、主の深いみこころがあります。失敗や挫折は、ピリオッドでなく、神のカンマなのです。すべてを知られる主が、弟子を強いて舟に乗せ、向こう岸へといかせられたのです。
 主は、わたしたちを決して見捨てられません。「夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて、弟子たちのところに行かれた」とあります。ところが彼らは、主を見て、「幽霊」だと、おびえて恐怖のあまり叫び声をあげたのでした。
 そんな弟子たちに、主イエスは言われます。「安心しなさい、わたしだ、恐れることはない。」この「わたしだ」という表現は、神さまがご自分を現されるときに使われる言葉です。それは神の臨在、わたしはあなたと共にいる、という語りかけなのです。
 主イエス、ということが分かると、ペトロは、主のお許しを得て、水の上を歩いて、イエスのほうに進みます。そのとき、彼は、強い風が吹いているのに気づき、沈みかけ、「主よ、助けてください」と叫びました。
 主は、すぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われます。二人が舟にのりこむと、風は、おさまりました。
 わたしたちの歩みには、逆風のときがあります。しかし、今日の箇所は、主イエスがおられるとき、どんなに波風が荒くても、そこに平安があることを、聖書は語っているのです。逆風は、わたしたちの歩みに、ピリオッドをつけるものではなく、継続して神が語り続けられるカンマなのです。イザヤ40・30、31に、「主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない」とあります。
 ここには、神が逆風をわたしたちの追い風に変えてくださる恵みがあります。この鷲の飛び方を、RSV聖書は、ソアーという飛び方を表す語を使っています。この飛び方は、上昇気流にのって大空を悠々と上っていく飛び方について使われます。
 この時代、イスラエルの民は、決して順境といえる状態ではなく、逆風そのものでした。国は滅び、神殿も倒壊、人々はバビロンに強制移住させられていました。その挫折のなかで、イザヤは、この預言を語ったのでした。
 「ピリオッドでなくカンマ」なのです。神の新しい語りかけとみ業は続きます。主に信頼して歩みましょう。
                           (新潟地区で-講壇交換により、7月13日、新潟教会にて説教)
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標題解説
 「ピリオッドでなくカンマ」という標題は、アメリカの合同教会(UNITED CHURCH OF CHRIST)が掲げている標題である。その本文は、「神さまがカンマ(読点)を打たれたところには、けっしてピリオッド(句点、終止符)はありません」、"Never Place a Period where God has placed a comma"(Gracie Allen)というものである。
 これは「神さまは、今もなお語り続けておられます」(God is still speaking)ということである。今日、世界は、ともすれば、ナショナリズムや原理主義により、物事を一方的に決めつけて、対立と敵意が生じる風潮が強いように思われる。国や民族の間で、またわたしたちの間で(教会もまた然り)、そしてわたしたち自身の歩みに於いても、断定をもって神のわたしたちに対する無限の愛と可能性を閉ざしてしまう傾向がある。年間3万人という自殺者のあるこの国の社会は、そこここにピリオッドを打つ社会でもある。
 しかし、神さまは、まだお終いではない(終わりは近づいているかもしれないが)と言われる。可能性と希望が残されているのである。
 因みに、UCCの後に、IN JAPANをつけると「日本キリスト教団」になる。

 

月報「あかしびと」第449号 巻頭言

 

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