礼拝説教 2008年 5月 4日

「 渇ける人、わたしに来て飲め 」

ヨハネによる福音書7章32~39節
原田史郎牧師

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 群衆は、イエスについてささやいていました。「メシアが来られてもこの人より多くのしるしをなさるだろうか」、それは「メシアかもしれない」(7:41)とも思えますし、さりとてまだ確信の持てない、疑問もある、という状態(7:42)でもあります。
 これを耳にした祭司長とファリサイ派の人々は、イエスを捕らえるために下役たち(神殿警備隊)を遣わします。だが、神の時がまだ来ていなければ、どんな力もイエスを捕らえることは出来ません。下役たちが来たことによって、主は、ご自分の働きが終わりに近づいていることを悟られました。
 イエスは言われます。「しばらくは、あなたたちと共にいる。それから私を遣わした主のもとへと帰る。あなた方は捜しても、見つけられず、わたしのいる所にも来ることは出来ない。」
 もうしばらくすれば、主は神の定められた道(十字架の死)に歩まれ、人々の間から去っていかれるのです。そこには、人々も弟子たちも行くことは出来ません。
 この主の言葉は、ユダヤ人には、謎めいた言葉でした。彼らは主が、各地に離散しているユダヤ人やギリシア人の所に行って、教えるものと理解しました。群衆のこの時の理解は、正しい理解ではありません。
 だが、主イエスの十字架と復活によって、弟子たちやパウロ、後代の教会は、全世界にイエスの福音を伝道することになります。彼らは知らないうちに、予言をしていたことになります。
 わたしたちの回りに起こることで、今はどんなことなのか理解出来ないことがあります。けれども、主に聞き従っていく中で、ああ、あの時の意味は、こういうことであったのか、と教えられることがあります。時の来るまで、イエスの真意は隠されています。
 祭りは半ば(7:14)から終わりの日に入っていました(7:37)。その「祭りが最も盛大に祝われる終わりの日」に、イエスは立ち上がって大声で言われました。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」(37)。
 この祭りは、仮庵の祭りの七日目、最後の日だと考えられます。祭りの期間中、シロアムの池から運び上げられた水が、神殿の祭壇に注がれました。これは、かつてイスラエルの民が、荒野を旅し、渇いていたとき水が与えられたことを記念する儀式です。主は、この歴史的出来事を思い起こしつつ、たましいに渇きを覚えている人々に「わたしのところに来て飲みなさい」と招かれるのです。
 「水」(マイーム)は、言うまでもなく、わたしたちが生きるために欠かせない飲みものです。水の無いことは、死を意味し、水が豊かに注がれている所には、生命があります。 主はわたしを青草の原に休ませ 憩いの水のほとりに伴い 魂を生き返らせてくださる(詩編23:2、3)。
 このように、主イエスが与えてくださる水は、わたしたちを生かし、渇きをいやすものであります。
 神が造られた人間のたましいは、神の霊以外のどんなものによっても、けっして満たされることはないのです。人間の心の奥座敷は、わたしたちを造られた神の臨在するところです。主イエスのみが、わたしたちの渇きをいやしてくれるのです。
 そして主イエスは、更に素晴らしい賜物を約束されました。「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」(38)。ヨハネは、この「生きた水」を「信じる人々が受けようとしている"霊"について言われたのである」(39)と説明しています。
 主イエスが十字架にかかられ、復活された後、この霊は与えられます。「(イエスは)彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい」」(20:22)。この聖霊は、ペンテコステの日以降、弟子たちを含めイエスを信じる人々、イエスの共同体に与えられました。そこから教会は溢れ出る川の水のように、イエス・キリストの救いを力強く宣べ伝えはじめます。
 わたしたちの中で渇いている人はいませんか。たましいに生命を宿さずむなしさや不安はないでしょうか。イエスは、「わたしのところに来なさい」と招かれます。荒野のような現代社会の中で、いのちを喜びに満ちた泉へと導き、豊かな水をもって満たしてくださる主に従いたいと思います。次週、その主イエスの招きに応じて一人の青年が洗礼を受けます。主を賛美せよ。

 

月報「あかしびと」第446号 巻頭言

 

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