礼拝説教 2008年 3月 9日
「 十字架の勝利 」
ヨハネによる福音書12章20~36節
原田多恵子牧師
本日は教団教会暦により、ヨハネによる福音書12章20~36節から「十字架の勝利」と題されている箇所を取り次ぎます。昨年も同じ題でルカによる福音書20章9~19節から学びました。
本来ならば、この箇所は16日の棕梠の主日の後に位置していますが先になっています。
主イエスが11章で、ベタニアのラザロを死後4日も経っているのに墓の中から呼び出して、生き返らせられたことに驚いた人々が、ろばの子に乗ってエルサレムに入城されるのを「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、イスラエルの王に」と歓呼の声を挙げて出迎えたとあります。その後、ギリシア人たちが主イエスに面会を求めて、フィリポに声をかけます。
このときの過越しの祭りには各地から270万人もの巡礼者が集まっていたという説があります。そのうちに、真理を探求する民族、又、世界旅行を始めたギリシア人がいたのであります。彼らはユダヤ教に改宗していたかどうかはわかりません。
ギリシア名でフィリポという弟子に声を掛けやすかったのでしょうか。フィリポは二人で登場するアンデレと組んで、主イエスに取次ぎました。すると、主イエスは「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」と昂揚して仰います。「時が来た」のです。
それまで、「まだわたしのときは来ていない」と何度も仰いましたが、今や、異邦人であるギリシア人が面会を求めて来たことは、全ての人のために死に、救いを成就する時が到来したことを自覚なさったのであります。そして、「一粒が死ぬ」ことは「十字架の勝利」であることを表します。ご自分の命を投げ出して、十字架に掛けられることこそ「勝利」であることをはっきりと示されます。
ノルウェー政府が北極圏で、地球温暖化や戦争などによる絶滅を防ぐため100万種の植物の種子を低温で保存できる「スパールバル全地球種子庫」なるものを完成させたそうです。朝日新聞に植物100万種「ノアの箱舟」に世界中から種子が集まる予定だと載っていました。
しかし、いざという時、この種は一粒の麦として死んで多くの実を結ぶことができるのでしょうか。
主イエスは、ヨハネ福音書では、他の共観福音書にある「ゲッセマネの祈り」に象徴される人間的一面を見せられるのでなく、「心騒ぐ。まさにわたしはこの時に来たのだ。父よ、御名の栄光を現してください」と祈られます。すると、「わたしは栄光を現した。再び栄光を現そう」と天から声がしました。人々は雷だとか、天使が話しかけたとか、大いに驚きました。が、主イエスは「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためだ。今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される」と仰います。「支配者」とはサタンのことで、失墜する時の到来、神の遠大な有史以来の救いの計画が全ての人に及ぶ時であります。今や神の世界がこの地上に主権をとって臨む時であります。
人々は「わたしたちは律法によって、メシアは永遠にいつもおられると聞いていました。それなのに、人の子は上げられなければならないのですか。その『人の子』とはだれのことですか」と旧約聖書でいわれているメシア像とあまりにギャップがあるので戸惑います。
しかし、主イエスはそれに答えられず、「暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい」と勧められます。又、そのことは「自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る」と仰ることと同じでありましょう。
私共は悪魔の支配する罪と不義の暗闇の中で死んでいた者で、どう生きていいのかわからない者でした。又、「自分がわからない、どうしたらよいかわからない」と、自分を憎んでいた者です。しかし「憎む」とは「神にお任せ、お委ねして、顧みない」ことを意味するといわれます。このところは難しいですが、主イエスが、ご自分を「一粒の麦」として死んでくださることによって、それを信ずるものは、生かされ、神にお任せしていく生涯に幸いを与えられ実を結ぶ者とされるということです。「十字架の勝利」を深く想い、レントの時を過ごしたいものです。
月報「あかしびと」第445号 巻頭言