礼拝説教 2008年 2月17日

「 光の子として歩みなさい 」

エフェソの信徒への手紙5章6~20節
原田史郎牧師

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 「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています」とキリスト者の存在、状態を宣言します。「暗闇」というのは「光」に対比して、神を知らない世界での私たちの姿を、言い表しているのです。
 罪と死に囲まれて、どこから来てどこに行くのかも分からず、罪の誘惑に負けていたわたしたちでした。昔から変わらず、事件の報道がされていますが、犯人について、よく「あんなに良い人が」等と近所や同僚のコメントがつくことがあります。一見、平穏無事に見えても、この世界に、またわたしたちの心に闇があるのです。
 しかし、「今は主に結ばれて、光となっている」と聖書は告げます。丁度、暗闇の中にあった電球に、コードが繋がれ、電源であるイエス・キリストに結ばれるとき、光は闇を吹き払い、一挙に輝き出すのです。
 光が輝くとき、生命が生み出され、成長し、やがて実を結びます。それは、春の光が射し始めると、凍えた土の中の死んだようになっていた種や球根が活動を始めるのと同じです。
 そこで生じた光の実を聖書は、「あらゆる善意と正義と真実」であると言います。善意は人との間に生まれる好意や親切です。正義は、その関係を正しく、公平なものにします。そして真実は、虚無や偽善、二枚舌ではなく、誠と真実が人々の間にあるのです。わたしたちが闇の中にあるとき、けっしてこの様なものは生まれてきません。
 光とされているキリスト者は、「光の子として歩みなさい」と勧められます。そのため、幾つかのことが挙げられていますが、特に三つのことを考えたいと思います。
 光の子の特徴の一つは、「何が主に喜ばれるかを吟味し」歩む、ということです。わたしたちは、毎日、そのように、主の喜び給うものが何かを問うて歩んでいますか。
 わたしたちは何故聖書を読むのでしょうか。それは単なる慰安のためではありません。「あなたの御言葉は、わたしの道の光 わたしの歩みを照らす灯」(詩編119:105)とあるように、聖書の御言葉を通して、主のみ心とするわたしたちの歩む方向、道筋を探り、主に喜ばれるものとなるためなのです。
 ベタニアの家に主イエスが入られたとき、一人の女が、極めて高価な香油を主の頭に注ぎかけました。すると弟子たちは憤慨して「なぜ、こんな無駄使いをするのか」と咎めました。しかし、主イエスは言われます。「なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ」(マタイ26:10)。この後、主はエルサレムで十字架にかかられます。この女性が、そのことを察知していたかどうかは分かりません。だが、この女性の心は、主イエスに対する感謝の思いで一杯だったのです。どのように、主をお喜ばせ出来るのかということから、彼女の出来る最大の献げものとして香油を注いだのでした。
 「実を結ばない暗闇の業に加わらないで、むしろ、それを明るみに出しなさい」神のみ心を無視し、汚す行いは、やがてキリストの光の中で照らし出されるのです。
 第二は「時をよく用いなさい」と勧められます。何故なら、「今は悪い時代」であるからです。
 文語訳聖書は、「時期(とき)をうかがえ」と訳しました。直訳では「買い占めよ」です。ときをうかがうというのは、何も行き当たりばったりではない、ということです。普段から、主のみ心を問い祈っているとき、不思議にパッと道が開かれるのです。行き詰まりに見えた絶望的状況の中に、好機が到来します。その時を祈り待ち、行動するのです。
 二月に君が代不起立が職務命令違反だとして、退職後の嘱託職員の不採用とした都教育委員会に対して判決が下りました。再雇用拒否に慰謝料の支払いを東京高裁は命じました。君が代斉唱時の起立は合憲、また旧教育基本法に違反しない等、問題は残っているものの訴訟を起こした元教諭たちには勝訴でした。
 都教委の強姿勢と、愛国心も通知簿の中に評価される流れの中で、ひとつの風穴が開けられたと思います。
 教会の隣設置の取得にしても、道が閉ざされた中で、好機が到来し、エレベーターまで設置できました。
 最後に、光の子は、酒に酔いしれて、一時の快楽の中に解放感を持つことより、聖霊に満たされ、聖霊に酔うことが大切です。聖霊は人間の心の空虚を満たし、喜びで一杯にしてくださるのです。「詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい」と勧められます。どうか、光とされたわたしたちに喜びが満ちますように。

 

 月報「あかしびと」第444号 巻頭言

 

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