礼拝説教 2007年12月23日
「 わたしたちと共におられる主 」
マタイによる福音書1章18~25節
原田史郎牧師
ヨセフに夢の中で現れた御使いは、ヨセフにやがて生まれる子に「イエス」と名付けなさいと告げました。イエス(ヘブル名ではヨシュア)は、「神は救い給う」という意味です。イエスという命名は、救い主の来臨を告げるものでした。
イエス(ヨシュア)という名前は、ユダヤでは、一般的な名前でした。日本でも義也とか義哉という名前の人がいますが、聞いてみると親がクリスチャンの人が多いようです。だが、マリアから生まれるイエスという名前は、イエス以降、特別な意味と品格を持つものとなります。「この子は自分の民を罪から救うからである」という言葉が、この幼な子を通して成就するからです。
罪からの救いは、最初の人間アダム以来、神に離反し続けている人間が求め続けてきた希求です。2007年を漢字一文字で表すと「偽」という字になりました。建築の偽装から始まって老舗といわれた食品会社、安全と技術を誇る橋梁メーカーに至るまで偽りを隠し続けていました。
また2006年の漢字は「災」で、地震や台風、洪水に悩まされた一年でした。病や死、悪や災いがわたしたちの回りで、わたしたちの中に満ちています。
しかし今や、人間を、諸悪の根源である罪から救い出し、もう一度、神との正しい関係に導いてくださる救い主が、わたしたちの所に来てくださったのです。
天使は「このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われたことが実現するためであった」と語ります。この預言は、イザヤ書7章14節からの引用です。イスラエルのアハズ王は、隣国アラムとエフライムが同盟したことで恐怖を感じます。「王の心も民の心も、森の木々が風に揺れ動くように動揺した」(7:2)。この恐怖と不安の中にある王と民に、イザヤは、神が共におられるのだ、主を信頼して安心しなさい、と神の守りと救いを語ったのです。
「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」この名は個人的な名称ではありません。神が共におられるという、主イエスの働きの内容と事実を表している呼び名であります。
詩編23編に「死の陰の谷を行くときも わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる」(4節)という一節があります。羊は、恐れを感じると足が動かなくなります。脅えて固まってしまうのです。そんな時、羊飼いは、持っている鞭や杖で地面や岩を叩きます。その音を聞いて羊たちは、羊飼いが共にいることを知り、安心して歩き出すのです。
神の御子が、幼な子イエスとしてわたしたちの所に下ってこられたのは、死の陰の谷、闇の支配の下にいるわたしたちと共にいてくださることの実現なのであります。
クリスマスには、ディケンズの『クリスマス物語』をはじめ、いろいろな作品があります。その中に、パール・バックの『わが心のクリスマス』という本もわたしが若いときによく読まれた本でした。パールの12歳の時の出来事が書かれていて、宣教師の両親と中国にいた彼女は、大きな災害を経験します。
黄河の氾濫によって、村の人々が難民になって、バック一家の住んでいた村にも流れ込んできました。真冬の寒さの中で、凍死者や食物が無く、毎日、何百人という人々が死んでいきました。その中で、一人の母親が出産します。しかし、生まれてすぐに赤ちゃんが死に、後を追うように母親も亡くなってしまいました。パールは、クリスマスが来る度に、この12歳の経験を思い出し、あの親子は一体どこに行ったのだろうと思いつつ「彼女らは今も生きている。飢えや、倒れて死にいく地上の人々の中に、彼女らは今も生きているのだ」と言うのです。
そう考えるしか他にない不条理と説明のつかない災厄や過酷な運命の中に、神の子イエスは来たり給うたのであります。そして、わたしたちと共にいてくださるのです。
クリスマスの祝いは、ただ単純にプレゼントの交換や電気で飾られたツリーだけでは表すことは出来ません。わたしたちの罪の現実、悩みに満ちたこの世界に、罪からの解放と永遠の生命が、神の光が射し込んで来る大きな喜びであります。
わたしたちが、わたしたちの所に来られたイエスの訪れを知るとき、そして、その方をわたしたちの生涯に受け入れ、信頼するとき、そこには確かにクリスマスが来ているのです。
月報「あかしびと」第442号 巻頭言